2人、3人集まると他人の陰口が始まってしまう・・・という光景をよく見ます。
そう言えば、他人のよいところをわざわざ口に出して言う人って(自分を含めて)あまり出会ったことがありません。
このように私たちは他人の良いところより、悪いところの方が見つけやすい。
それはいったいなぜでしょうか?
その理由を知ることで、人間の心の原理の一端をうかがい知ることができます。
自分が不機嫌な時は他人のアラ探しをしてしまう
私たちが他人の短所や欠点にすぐ目が行ってしまう理由はいくつかあります。
その中で割とよく語られる理論をまずご紹介しましょう。
それは「自分自身の精神状態と同期する」という説です。
どういうことかと言うと、他人の悪い面に目が行く時って、たいてい自分自身も不機嫌な時が多い、という話です。
一般的に言って、人は機嫌のよい時にわざわざ他人の欠点をあげつらったりしません。
かりに面と向かって悪口を言われても、
「あの人も精神的にタイヘンなんだな・・・理解してあげなくっちゃ」
と、まるで聖人にでもなったかのように受け流したりします。
ところが自分自身が不調の時はこうはいきません。
例えば睡眠不足な時に機嫌が悪くなる人っていますよね。
そういう時は他人のちょっとした言動にもイラッときたりするものです。
だから自分自身の精神状態が不調な時にこそ、なぜか吸い寄せられるように他人の悪い所に注意が行ってしまうと言われるのです。
人によっては、これを
「他人は自分を映す鏡だ」
と表現する人もいます。
つまり、他人の欠点に気づく時はまず自分の精神状態をチェックしよう・・・という、教訓めいた説です。
自分の評判を落とす行為をする人に違和感を抱く
今述べたように、自分の精神状態が不調な時、まるでそれと同期するかのように他人の悪い面を自然に見つけてしまうという傾向が私たちにはあります。
しかしそれはあくまでも「その時」の心理状態が自分をそうさせているだけです。
だから私としては、これについては「他人の欠点や短所に気づきやすい理由」には当たらないと考えています。
でも、今から述べる2つの心の法則はそういった「一時的な心理状態」のことではありません。
正常な精神状態の時でも私たちが他人の欠点や短所をすぐに見つけてしまう「心の法則」です。
まず1つめの心の法則。
人は誰でも本能的に
「他人から良い人だと見られたい」
という欲求を持っています。
なぜならその方が生存のためには都合がいいからです。
「良い人だ」と思われていた方が困った時にも助けてもらいやすい。
「良い人だ」と思われていた方が失敗した時も許してもらいやすい。
そのように思うのは普通の人だけでなく、詐欺師など根っからの悪人でも同じこと。
人をうまくダマすには、まず「良い人だ」と思われた方が仕事(?)がうまくいくからです。
つまり人間というものは善人だろうが悪人だろうが他人から「良い人だ」と思われるように振るまおうとする傾向がある、ということです。
そして、そういった振るまいというのは誰にとってもアタリマエなので、毎回、そんなアタリマエのことに気づく人はいません。
ところが、もし明らかに「他人から悪い人だと思われそうな行為」をしている人がいたらどうなるでしょうか?
「なぜ、あの人はわざわざ人に悪く見られるようなことをしているんだろう?」
「なぜ、わざわざ自分の評判を落とすようなことをするんだろう?」
・・・と、私たちの心の深層部に「引っかかり」が生じます。
(もちろん無意識のうちにですが・・・)
そしてさらに、私たちの心の深層部にある無意識は、例えば次のような推理をしてみたりします。
わざわざ自分の評判を落とすような行為をするんだから、何か事情があるのかも知れない。
こうした心の中のつぶやきを私たちはちゃんと意識しているわけではありません。
ただ、私たちは「わざわざ他人から悪人だと思われる行為」に対しては「違和感」を覚えます。
そして、その違和感については意識がちゃんと拾い上げるため、そのつど私たちは他人の短所や欠点に目が行ってしまうように感じるのです。
自分より次元の低い「他人の行い」は気づきやすい
次に2つめの心の法則。
これはたとえ話から始めてみたいと思います。
皆さんは地面をはいながら一所懸命に働いているアリを見たことがあるでしょう。
「おお、働いとるな~」
てなもんで、それを上から見下ろしているのが人間です。
ところがアリの方からしてみると、自分たちの動きをまさか人間とかいう生き物が上から見下ろしているとは想像さえしていないでしょう。
その理由は「次元」という概念で説明できます。
人間から見ると、アリという小さな生き物は地面や壁のように平面的な、つまり「タテ×ヨコ」の2次元の世界で生きている存在です。
これに対し、人間は身長というものがあるため、「タテ×ヨコ×高さ」の3次元の世界で生きていると考えられます。
このように「〇次元」という考え方で見た場合、自分より高次元の世界の存在は気づかないけれど、自分より低次元の世界の出来事にはよく気づく、ということがあるのです。
では、ちょっと話が飛びますが、もし神様がいたとすると、神様はたぶん「タテ×ヨコ×高さ×時間」という4次元の世界あたりにいると考えられます。
だから神様の次元からすると人間のやることなんて丸わかりだというわけです。
逆に私たち人間は神様のように自分より高次元の存在には気づくことができません。
昔の人が「神の御心をはかりかねる」などと言ったのはこのことです。
さて、ここまでは話をわかりやすくするために「次元」というものを物理的にとらえて説明しました。
では、この次元を人間の精神に置き換えてみたらどうでしょうか。
善人のことをよく「気高い心を持った人」などと表現しますよね。
「気高い(けだかい)って何だ?」ということですが、これは結局、「精神的な次元」の話だと考えられます。
「あいつはホント、最低なヤツだよ」
という場合の「最低」という言葉も、同様に「精神的な次元」の話だと考えればいいでしょう。
つまり、次元というものには物理的な世界もあれば、精神的な世界もあるということです。
そして、精神的な次元の場合も物理的なそれと同様、
・自分より次元の高い存在には気づかない
・自分より次元の低い存在には気づきやすい
という法則が成り立ちます。
つまり、「他人の良い面」は、その部分においては自分より次元が高いので気づきにくい。
一方、「他人の悪い面」は、その部分に関して言えば自分より次元が低いので、まるで見下ろすようによくわかるわけです。
でも、1つ注意しておきたいことがあります。
1人の人間の中にもいろんな次元の精神が同居しています。
したがって良い面もあれば悪い面もある。
ということは、次のようなことが考えられます。
もし自分と他人のAさんの性格や人間性を比べた場合、
・ある面においては自分よりAさんの方が次元が低い
・別の面においては自分よりAさんの方が次元が高い
ということがあるはずです。
このように1人の人間の精神というものは良い面もあれば悪い面もあるというふうに、「まだら状態」になっているものです。
だからこのことに気づかず、たまたま他人の悪い面、つまり次元の低い一面だけを見て、
「アイツはじぶんより次元が低い!」
と相手を全否定するのは間違っているということです。
なぜなら「自分の中の次元の低い部分」もまた相手からは丸わかりになっているはずだからです。
これについては私自身もホント、気を付けたいものだと思っています。