本来、天職とはちょっと手を伸ばせば届くところにある職業です。
ところがそれを「天高きところにある理想の職業」と誤解してしまうと、天職探しはいきなり難しいものになってしまいます。
そこで今回の記事では私の若い頃のおバカなヨガ修行体験をネタにして、天職にまつわる誤解を解いてみたいと思います。
また「本当の天職とはどんなものか」についても考えてみます。
インド人になりきってヨガを極めようとした日々(笑)
若い頃、私は3年間ほどヨガをやっていたことがあります。
ヨガと言ってもいろいろあって、多くは柔軟体操系など健康志向のヨガだと思うのですが、私がやっていたのはけっこう本格的なやつで、どちらか言うと修行系のヨガでした。
(と言っても、宗教的なやつではないのでご安心を)
当時、私はヨガを極めてやろうと思っていました。そこでヨガを極めるにはまず自分の生活をインド風に改めることから始めるべきだと考えました(今思えばバカ)。
それで何をやったかというと、「インド人は毎日カレーを食べている」というわけで私も毎日カレーを食べていたわけです(ほんとにバカだ)。
さらに「インド人は肉を食わない」というので私もヨガに夢中になっていた3年間のうちの2年間ほどは肉をまったく食べない生活をしていました。
(つまり肉なしカレーを毎日食べていたわけです)
また、ヨガには「ヨガ経典」という古い書物があるのですが、これの原書を読みたくてサンスクリット語を独学したりしていました。
(…というか、実際にはサンスクリット語を始める前にその文字であるデーヴァナーガリーを暗記し終えた時点で力尽きて挫折したのですけどね)
当時、私は自分のヨガに対するモチベーションを高めるためにインドで聖者と呼ばれていた人が書いた本の和訳本を何冊か読んでいました。
たとえばパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』とか、ゴーピ・クリシュナという人が書いた『クンダリニー』という本ですね。
(いずれもヨガの世界では有名な本です)
ちなみに「ヨギ」とは簡単に言えばヨガをする人のことで、「クンダリニー」とは覚醒とかいった意味の言葉です。これについてはちょっとアブナイ方面のジャンルだと思っていただければいいかなと思います。
今、私がこうやってヨガについて冷静に語れるのもヨガに対する興味が完全にゼロになってしまったからですが、当時は完全にハマりまくっていました。
どのくらいハマっていたかというと、それはもう、自分の生活とか稼ぎなんてどうでもいいやっていうくらいの気持ちでヨガにハマっていたんですね。
そのハマり方を一応、わかりやすく数字的なもので示すことにしましょうか。
ヨガの有名なポーズで三点倒立というのがありまして、これは頭と両肘のみで倒立し、壁にもたれることもなく、そのままずっと逆立ちしているというポーズです。
私はそのポーズに夢中になり、最高3時間ぶっ続けで三点倒立をしていたことがあります。
だから何なの?と思われたなら、一度、まわりにいるヨガ関係者に連続3時間の三点倒立がどんなものかを聞いていていただきたいと思います。普通、そこまでする人はめったにいませんので。
ともあれ、私はちょうど3年間にわたってヨガをやった後、ある日、ふと目が覚めたようにヨガを捨てました。
それには理由があるのですが、今回のテーマとは関係がないのでここでは書きません。
インドでは聖者であっても世俗的な定職に就いている
私は当時、インドの聖者たちが書いたヨガの本を何冊か読んでいるうちに、ある意外なことに気づきました。
たとえば前述の2冊の本の著者はいずれも普段は役所勤めの公務員をやっているのですね。
日本的に言えばものすごくカタギの仕事です。不景気になって倒産する心配もクビになる心配もありません。
毎月、ちゃんとした給料が支払われ、定年まで勤め上げて最後はいくばくかの退職金をもらい、老後は安定した年金暮らし…。
公務員といってもいろいろあって、昨今、日本では公立の小中学校で教職に就いている先生たちが激務の果てにノイローゼになって退職する、という話を時々聞くようになりました。
確かに大変な仕事だとは思いますが、それでも民間の企業で働くつらさはまた別次元だと思うのですけどね。
話を元に戻しましょう。
パラマハンサ・ヨガナンダやゴーピ・クリシュナに限らず、インドで聖者と呼ばれる人たちって、調べてみると普段はふつうに世俗的な仕事をまじめにやっている人たちが案外多いのですね。
「衣食足りて礼節を知る」というのは日本的な言い回しですが、やはりある程度、生活基盤が安定していないと「聖者商売」も長くはやっていけないということらしいです。
でも、若い頃、(ほんの一時期にせよ)すべてを捨ててヨガを極めようとしていた私としては「少々ガッカリ」、「違和感たっぷり」といったところでした。
「ちゃっかりしてるよ、コイツら」みたいな気持ちで…。
天職は天高きところにある理想の職業ではない
天職という言葉じたいは漢字なので日本語ですが、発想としては「天(神様)が我に与えたもうた仕事」という意味なので本来はキリスト教なのでしょうね。
つまり神様がまるで自分1人のためにオーダーメイドのように用意してくださった仕事という意味合いで、「まさに自分にぴったりの仕事」ということなのでしょう。
だから天職とは背伸びしてつかみ取るようなものではないのです。
したがって本来、天職という概念には理想とか夢といった「浮世離れ」した感覚はありません。
ところが私たち日本人はしばしばこの「天職」の意味を取り違えてしまう傾向があります。
天職の「天」を文字通り天高きところにある「天」だと解釈し、けだかい価値を持った職業、思い切り手を伸ばさないと届かない職業、あるいは手を伸ばしてもなかなか届かないので相当な努力が必要なもの、というふうに解釈しがちです。
でも実際は違います。すでに述べたように「自分にぴったりの仕事」に過ぎないので、別に自分らしからぬ努力をしなければ得られない職業ではないというのが本当のところです。
「天職は聖職」という美しい誤解
私は性格タイプをからめた天職サイトを運営している立場ですが、どんな人たちがこのサイトに来てくださっているかはよくわかりません。
しかしおそらくですが、天職を見つけたいと思う人にはある種の共通点があると想像しています。
(それは「以前の自分がそうだったから」というのもありますが)
つまり、先ほども述べたように「たかだか職業」を理想化して考えるところから、天職探しをする人はどちらか言えば理想主義者が多いのではないかと思うのです。
これはユング的に言えば直観(N)型のタイプの人だと言えます。
(ちなみに私自身がズバリそうです)
しかし前述の通り天職といっても所詮は仕事に過ぎません。「天」の文字は付いても、職である限り、いずれも世俗的なものなのです。
そして、その世俗を生きて行くにはやはりお金をちゃんと稼げる仕事でないといけません。
たとえインドの聖者であっても生きていくためにはお役所など世俗的な職場で働く必要があるのです。
その上でもし聖人のようなことがやりたければ余暇を利用してヨガでもボランティアでも何でもやればよい、ということになります。
大切なことは自分が尊いと思うことと職業とを重ね合わさないことです。
もちろん職業である以上、またお金を稼ぐ以上、それなりの努力は必要でしょう。でも、それはあくまでも普通の努力で十分なはずです。
いくら素晴らしい仕事、理想的な仕事であっても、ふだんの自分の努力で手が届かないような仕事であれば、たぶんそれはあなたにとって天職でない可能性があります。
理想主義者の人はつい現実的な視点を忘れがちです。だから仕事を探す時にはなおさら感覚(S)型のような視点を大切にしましょう。
もし、それがどんな視点かよくわからないようでしたら次のページが参考になります。
もう1つ書いておくと、たとえ金を稼げても天職にすべきではない職業もあります。
私が天職というものについて思うことをいくつかあげてみます。
① 自分が消耗する仕事は天職ではない
② 人に迷惑をかけることは天職ではない
③ 自分さえよければよいというのは天職ではない
その上で、
④ 人並みに生きていくために十分な収入が得られなければ天職ではない
と考えています。
皆さんがこのサイトから天職探しのヒントを見つけ、充実した人生を過ごしてくださることを祈っています。