2013年初版、いまだに売れ続ける
大ベストセラー、『嫌われる勇気』。
それを私は数日前にやっと読んだところです。
ただ、登場人物の「青年」と違って、自分には素直にうなずけない点も多数ありました。
だからと言って、この本の悪口ばかり書くとブログの読者に嫌われそうだし・・・。
いや、そんなことを心配していてはダメですよね。
せっかく『嫌われる勇気』を読んだのだから、勇気を出して書いてみよう。
・・・ということで書いてみました。
『嫌われる勇気』の
「ここが納得できない!」ワースト3
海外でも売れているベスト&ロングセラー
『嫌われる勇気』は2013年の初版以来、いまだに版を重ねています。
日本だけでなく海外でも読まれていて、世界ですでに600万部以上売れているそうですね。
まさに怪物級の本です。
私はこの手のベストセラー本ってめったに読みません。
でもコロナ禍で時間があり過ぎる・・・。
そこでついに重い腰をあげて読んでみました。
そして感想はというと・・・
う~ん、ほとんど普通のことばかり書いてあるような・・・。
とにかく内容の80%以上は普通の道徳。
今さら言わなくったって・・・と思える部分が多かったです。
それより気になったのは全体の流れ。
これはプラトンの『ソクラテスの弁明』を意識しているようですね。
あの問答法ってやつ。
でも、ソクラテスの論理の爽快感とは違う。
なんだか
「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」
という感じ。
青年からのツッコミに対し、ひたすら論点をすり替えながらあっちこっちに話が飛ぶ、っていう印象を受けました。
まあ、それだけだったら無害な本です。
でも率直に言って
「これは聞き捨てならん!」
と思える部分がいくつかありました。
そこで私からの反論として、
特に次の3点を述べたいと思います。
・それでもトラウマは存在する
・幸せになるのに勇気など要らない
・そもそもアドラーは正しいのか?
この3点を私からの反論として述べることにします。
それでもトラウマは存在する
この本の中で青年が自分の友人の話を持ち出します。
その友人は過去のつらい出来事がトラウマとなり、外に出ることができなくなったそうです。
それに対して、哲人はこう語ります。
ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。
つまり哲人が言うには、
物事は「原因論」ではなく、
「目的論」で考えるべきだと言うのです。
そこで青年は哲人に
「あなたはトラウマの存在を否定されるのですか?」
と聞きます。
それに対する哲人の答えが次です。
断固として否定します。
・・・・・
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。
ここで哲人が述べているのはこういうことです。
過去に支配されるのではなく、「人は変われる」ということを前提に考えるべきである。
今のままの自分に安住するのではなく、「幸せになる勇気」を持つことが大切である。
その理屈はわかる。
でも、それを言うために、
トラウマの存在を否定してはいけません。
これは絶対に間違っています。
トラウマと一言で言っても、いろんなレベルがあります。
たとえば
「高校生の時、英語の先生が嫌なヤツでさ、それ以来、英語がトラウマになってんだよね」
などというのは可愛いレベル。
そんなトラウマを解消するのにわざわざ心理学を使う必要はないでしょう。
しかし本当のトラウマとはこんなものではありません。
本当のトラウマに苦しむ人は現にいます。
そして、その後遺症であるトラウマ反応、つまりPTSD(心的外傷後ストレス障害)で医療を受けている人もたくさんいます。
つまり、トラウマというのは医学上の概念であって、治療の対象となる病気なのです。
肉体上のケガをすると血が出る。
その血は誰の目にも見える。
トラウマも同じで、心に負った傷口から血が流れ出ている状態です。
ところがその血は他人には見えない。
でも、本人にしてみれば死ぬほどつらい。
なのに、目に見えないからと言って「気のせい」扱いされる。
そして「トラウマなんてない」と言われる。
これは例えば交通事故で足を骨折した人が
「骨折などは存在しない、考え方を変えれば普通に歩けるし痛くもないよ」
と言われるのと同じことです。
そもそもトラウマという概念が注目されだしたのはベトナム戦争以後のこと。
ベトナム帰りの米兵たちがフラッシュバックに悩まされることからアメリカで研究が進んだそうです。
医療分野としてもまだまだ新しいんですね。
アドラーの時代にもトラウマという概念はあったのでしょうけど、まだトラウマは病の一種だという考えは未発達だったと思います。
そこのところを考えず、いまだにトラウマっていえば単なる気持ちの問題だとカン違いしている。
それがこの本です。
「トラウマは存在しない」と言い切ってしまうこと。
それによって、現にトラウマに苦しんでいる人を救済できないばかりか、さらに傷つけるのだということ。
少なくとも哲学者が不用意に、無責任に立ち入る分野でないことは確かです。
幸せになるのに勇気など要らない
「幸せになる方法を教えてあげようか」
とう人がいると、みんな
「えっ、ホントですか!教えてくださーい」
と集まってくる。
これが自己啓発本の基本であって、
それはこの本でも同じこと。
でも、ここには
「人はみんな幸せになるべきだ」
「幸せになることをサボってはいけない」
といった考えがすでに大前提になっている。
でもね、ちょっとじっくりと考えていただきたいのです。
幸せか否かというのは、実は他人との比較から出てくる「格付け」に過ぎません。
だって、そうでしょ。
もし世界に自分1人だけだったら、自分が幸せかどうかなんて問題にならない。
自分以外にもう1人出てくると、そこで初めて
「自分とあいつとどっちが幸せかな」
なんて思いが出てくる。
結局、幸せというのはレースです。
シンドイ思いをしてまでそんなレースに参加するくらいなら、最初からエントリーしなければよいだけのこと。
『嫌われる勇気』にはこう書かれています。
「幸せになるには自分を変える勇気を持てばよい」と。
でも、そもそも勇気を出してまで幸せになろうと考えなくても、十分満足できる人生は送れるはず。
それよりも、
「幸せになるべきだ!!」という強迫観念に煽られて生きることこそ、最大の不幸だと思う。
「幸せになりたい」という思いは、裏を返せば今の自分を否定することです。
そのスタート地点が間違っている。
バカボンのパパのように、日々、「これでいいのだ」と思えれば、それで十分ではないでしょうか。
https://yourcalling.net/hapiness-pressure/
そもそもアドラーは正しいのか?
『嫌われる勇気』の中でしばしば哲人は
「アドラーはこう言っています」
と青年に語りかけます。
このセリフの中には
「アドラーの言説=正しいに決まっている」
という前提があるわけです。
でも、その根拠は何でしょうか?
いつ、誰が、アドラーは正しいと決定したのでしょうか。
その証明もなく「アドラーは正しい」という前提のもとで、この本は書かれています。
これって、何かによく似ていませんか?
そうですね。
宗教です。
いや、別に宗教が悪いと言っているわけではありません。
そうは言ってはいないけど、たとえばキリスト教なら「聖書にこう書かれている」と言いはる人がいますよね。
イスラム教なら「コーランにはこう書かれている」と主張する人がいます。
そういう人に出会ってしまったら、もうその人の話を聞くしかありません。
反論はいっさいできない感じ。
ただ、「ありがたくご意見をうかがいます」と無批判の態度で聞き入るだけ。
そのうち気が付いたら説得されてしまっていた・・・というのがこういった自己啓発本の特徴です。
ベストセラーだからと言って鵜呑みにするのではなく、ちょっと批判的に読んでみることも大切です。
心が軽くなるのはホントか?
この本を読んで心が軽くなったという人もいるようです。
でも、本当に軽くなったのか、軽くなった気がするだけなのか。
それはたぶん、もう少し時間が経った頃にはっきりすると思います。
読んだ直後はなんだか圧倒されていて、正直言って何だかよくわからないのではないでしょうか。
それと、トラウマに悩んでいる人、
大昔にできてしまった心の傷口からまだ血が流れ続けている人
こう言う人たちの場合、この本を読んだからと言って、心の中の出血が止まるとは限りません。
だからと言って、自分はやっぱりダメだと思わないこと。
そこのところ、まず大事です。
さらに言えば、
「嫌われる勇気」は必要ありません。
それより
「人に好かれることをあきらめること」
の方がラクです。
その方が確実にカラダのムダな力が抜ける。
リラックスできる。
そして、それが案外、
トラウマ反応には効果があったりします。
よかったら参考にしてください。