ナマケモノ心理学コラム

人をジャッジするな!という正論の落とし穴

ジャッジするなと言うけれど…

ここ数年、ちょっと気になっているコトバがあります。

それは「ジャッジ」というコトバです。

 

「あの人、他人をすぐにジャッジするよね」

「〇〇さんは他人をジャッジしないから好きだ」

「私をジャッジしないでよ!」

・・・みたいな使われ方をするようですね。

 

どうやら「ジャッジする」という行為は「悪いことだ」と“ジャッジ”されているみたいです。

 

「ジャッジはダメだ」とジャッジする。

そこに矛盾を感じるのは私だけでしょうか?

 

今日はこの“ジャッジ”について

考察してみたいと思います。

 

 

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人をまったくジャッジせずに生きていけるか?

 

多くの人は「ジャッジはダメだ」と“ジャッジ”しているようです。

 

でも、ジャッジとは「判断する」ということです。

判断することなく、人は生きていくことができるのでしょうか。

 

また、人によっては

「ああ、他人をジャッジしてしまった・・・」

と自責の念で苦しむ人もいるようですね。

 

でも、これって何だかヘンじゃないですか。

まるで「〇〇って言ったら負け」ゲームみたいです。

 

――じゃあ、これからゲームします。

ルールは簡単です。

「はい」って言ったら負け。

ただそれだけです。

OK? わかりましたか?

 

と言っておいて、もし誰かが

「はい、わかりました」

って言ったら、

 

――あっ、「はい」って言いましたね!

あなたの負け~

 

・・・こういったゲームに似ているような気がします。

 

 

何もジャッジしない状態というのは眠っているか、気絶している状態です。

人は生きるために、毎日毎日、物事を判断しながら生きている。

なのに、

ジャッジはダメ!

と言われると、どうやって生きていけるのでしょうか?

 

 

「ジャッジしない」ではなく、むしろ着眼点を増やす

 

他人をすぐにジャッジしてしまう自分を責めてしまう人もいるようです。

でも、果たして他人をいっさいジャッジせずに生きていけるものでしょうか。

それって、ただ単に人に無関心で生きるということではないでしょうか。

 

人と会った時、相手をジャッジしてしまう前に回れ右をして帰ってくる。

そうやって人と深く関わらずに生きていても発展性がありません。

 

ではどうすればよいのか。

私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

 

まず、ジャッジするというコトバの意味を考えてみましょう。

これは裁判官が「有罪か無罪か」の判決をするのと同じです。

「正しいか、間違っているか」

「上手か、下手か」

「効率的か、非効率的か」

「有益か、無益か」

「マルか、バツか」

・・・・・・…・

というふうに

「いったいどっちだ?」

という単純な尺度で相手を判断することでしょう。

つまり相手に対し、または物事に対し

白黒の判断だけを付けるということです。

 

明けても暮れてもこんな単純なことをやっていれば、そりゃあ自責の念にかられるでしょう。

 

ここで大切なことは、

ジャッジするのが嫌だからと言って無関心をよそおうことではありません。

 

むしろ、もっといろんな角度から見てみたらどうだろうか?

ということです。

 

つまり「いったいどっちだ?」という単純な二元法はやめましょう、ということ。

 

そのかわり着眼点の数を増やすことで、もっと多元的に、多角的に相手をとらえるようにするのです。

 

 

たとえば職場にちょっと変わった新人が入ってきたとします。

みんなが気合いを入れて仕事をしているというのに、一人気が抜けたような表情をしてボーッとしている。

やる気があるのかないのか、よくわからない。

いったいどうしてこんな人物を会社は雇ったのだろうと不思議になってくる。

 

それで、もしかしたらあなたはこの新人について

「コイツはダメなヤツだ」

とジャッジを下すかもしれませんね。

 

でも、もしあなたが他人をジャッジするのが嫌な場合、もう、その新人のことは無視し、眼中に入れないようにしようとするでしょう。

するとジャッジする苦しさからは逃げられるかもしれません。

 

しかし、ここで考えていただきたいことがあります。

 

他人を見て、「コイツはダメ」と一言でジャッジを下すのは簡単です。

でも、「ジャッジするのが嫌だからスルー」というのも考えてみれば手抜きの解決策に過ぎません。

 

つまり、この問題においては、人をジャッジするも、スルーするも、いずれにせよ手抜きの方法だということです。

 

 

これに対して私の考え方はまったく逆です。

 

手を抜くな!

もっと悩めよ!

と言いたいのです。

 

 

この「ジャッジはダメだ」思想の落とし穴は「人を見る視点が少なすぎるところ」でしょう。

その視点の少なさをそのままにして、手抜きで問題を解決しようとしている点です。

 

たとえばさっきの新人の場合、確かに日頃は気合いの抜けたような表情をしているかもしれません。

でも、よくよく観察してみると、ひとたび仕事が入ると表情が変わって別人のようになることがわかりました。

 

つまりこの人物はオンとオフを就業時間中でも使い分けているだけのようです。

 

それが朝から晩まで四六時中、緊張し続けているあなたからすれば「気が抜けている」ように思えただけでした。

 

さらに観察してみると、その新人はこの業界ではすでに経験者なので、どの時点からダッシュをかければよいかを知っていたようです。

だからこそ、「抜くべきところは抜く」という仕事のコツを心得ていたのでした。

 

また、仕事も思いのほかキチンとやっていて、クオリティも高い。

確かにこの会社のやり方とは少し違うけれど、別に問題があるわけではない。

むしろ結果は必ず出してくれます。

 

 

こういうふうに相手をトータルに観察してみる。

それが着眼点を増やして多元的に人を理解するということです。

 

単に「マルかバツか?」「いい人か悪い人か?」などという単純なジャッジは人間理解の方法としては最悪で、明らかに手抜きです。

 

同時に「人をジャッジしたくないから」と言って無関心をよそおうのも手抜きです。

 

 

どうやら最近、あらゆる悩みや問題を極小化し、地域限定で解決するか、あるいは「なかったことにしよう」という考えが流行っているようです。

その姿勢こそ、最近、よく言われている「人をジャッジするな」という思想の正体だと思います。

 

 

人はお互い、多様性、多様な価値を受け入れ合って生きることが大事です。

それには自分自身の中にある「価値観の偏り」をなくす必要があります。

つまり、自分自身のワクを広げるということです。

 

悩むのは嫌だから「ジャッジはやめよう」では、自分のワクは永久に広がりません。

 

 

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その人が変なのではなく、あなたが変な場合がある

 

人をジャッジすることで自分を責め、そして苦しい思いをする人の場合、まだ人間的には救われています。

 

ところが中にはまるでハエや蚊を無造作に殺すように人を「悪ジャッジ」し続ける人もいます。

 

そういう人は常に特定の人を見てイライラしています。

こういう人についてはまったく別の問題を考えなければなりません。

このタイプについては次の記事をお読みいただきたいと思います。

つまりユングの言う「影の理論」が当てはまるパターンです。

 

影の心理学
なぜ人を見てイライラするのか?【ユング心理学の「影」理論】他人を見てイライラすることってありませんか? あるいはあなたの職場に なぜかイライラする人っていませんか? 逆...

 

 

反ジャッジ主義者の化けの皮

 

もう1つ、どうしても指摘しておきたいパターンがあります。

 

それは

「私のことをジャッジしないでください!」

と言っている人の場合です。

 

こう言う人は日頃から

「あの人は他人をジャッジするから嫌だ」

「あの人は人をジャッジしないからいい人だ」

などとよく言っています。

 

なぜ、この人は「ジャッジする他人」を目のカタキにするのでしょうか。

実はこういう人たちは「根がワガママ」な場合が多い。

 

「私は自分が好きなようにやりたい主義なので、私にかまわないで!」

ということを本当は言いたいのです。

 

でも、それでは「自分はワガママだ」と暴露しているようなものです。

 

だから「誰それはすぐ人をジャッジするよね」とか言って先制攻撃をかけ、それによって自分の周りに予防線を張っているだけです。

 

そして実際は「誰それは人をジャッジする」と人をジャッジしている自分自身に気づくことはありません。

 

単なる自己防衛のために、「ジャッジするのはよくない」という正論を道具に利用しているだけです。

 

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