一般的に「努力は尊い」と考えられています。
でも、これって本当なの?
「なんとなくダマされているような気がする・・・」
そう感じるなら、あなたの感性はたぶん正常です。
努力は本当に尊いのか
日本人は努力という言葉が大好きですよね。
価値あるものを手に入れるには努力が不可欠だと、誰もが素直に信じています。
ことわざや名言の中にも努力に関するものが多いです。
例えば・・・
雨だれ、石をうがつ
若い時の苦労は買ってでもせよ
不撓不屈(ふとうふくつ)
艱難汝を玉にす
為せば成る 為さねば成らぬ 何ごとも 成らぬは人の 為さぬなりけり
「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」とは「苦しみや困難があなたを立派にする」という意味。
最後の「為せば成る・・・」は江戸時代の上杉鷹山という人が作った句です。
「努力すれば成功する、努力しなければ何も成功しない、成功しないのは努力しないからだ」という意味です。
私も子供の頃からこういった名言を耳にタコができるくらい聞かされてきました。
そしていつのまにか「ドリョク真理教」信者になっていました。
しかし、ユング心理学のタイプ論を学んでから、私はこの「努力=尊い」という考え方に疑問を持つようになりました。
「充実した人生」に「努力」は絶対に不可欠な条件なのだろうかと・・・。
努力と価値は関係ない
目の前に新鮮で美味しそうなミカンと、腐っているミカンがあるとします。
当然、新鮮なミカンの方が価値があります。
そもそもミカンの価値は、そのミカンそのものに宿っています。
そのミカンをどうやって手に入れたか、どんな努力をして手に入れたかは一切関係ありません。
確かに「ありがたみ」という気持ち的な部分は変わってくるかも知れません。
しかし、「そのもの」の価値が変わることはありません。
ところが人は「あっさり手に入るもの」には価値を認めず、「努力したり苦労して手に入れたもの」ばかりに価値を置く、という傾向を持っています。
その結果、本来ならもっと簡単に幸せになれたはずなのに、わざわざ自分をムダにすり減らす方向へ行き、その結果、挫折の人生にはまり込んだりしてしまうのです。
これがドリョク真理教の弊害です。
なんだか修行しているみたい(怖)
劣等機能ばかりが気になってしまう
私たちがドリョク真理教に陥ってしまう原因をユング心理学で考えてみましょう。
人には思考、感情、感覚、直観の4つの性格機能が備わっているのでしたね。
この4つのうち、誰にでも優越機能と劣等機能が1つずつ存在しています。
4つの性格機能や劣等機能についての詳細はこちらの記事をご覧ください。
たとえば思考が優越機能である思考タイプの場合、物事を論理的・合理的に考えるのが得意です。
この「物事を論理的・合理的に考える」というのは思考タイプ本人にとっては子供の頃からアタリマエにやってきたことであり、もはや価値を感じることはありません。
ところが物事を論理的に考えられない人はこの世にたくさんいます。
そういう人から見ると、思考タイプの際立った論理性や合理性はほとんどミラクルに思えるはずです。
ところがさっきも述べたように、思考タイプ本人は「そんなことは大したことではない」と思っています。
つまり自分の優越機能を過小評価している。
逆に、自分の弱点(劣等機能)、つまり(この場合だと)感情機能が今いちパッとしないことはメチャクチャ気にある。
「なぜ自分は人の気持ちに鈍感なのだろう?」
「なぜ自分は冷たい人間のように思われるのだろう?」
こうして思い悩んだあげく、感情力を養うための入門書などを読んでみたりするかも知れません。
そして明けても暮れても感情機能を高めることばかり考えるようになります。
こうした人の中には、
「これだけ熱心に感情のことを考えているのだから、自分はもともと感情タイプに違いない」
とカン違いしている人もたくさんいます。
劣等機能の罠は恐ろしい!
私たちにとって劣等機能は常に「気がかりな存在」です。
「気がかり」だからこそ、逆に尊いものに思えてしまいます。
人生を賭けてでも克服すべき価値あるものに感じられたりします。
そしていつの間にか自分の劣等機能の克服が人生のメインテーマになってしまうのです。
この努力はたいがいムダに終わります。
そのエネルギーを自分の優越機能をもっと磨き上げることに使っていたなら、もっと有益な時間を過ごせただろうに・・・。
劣等機能の恐いところは「まだまだ努力しがいがある」と思わせてしまうところです。
そうした悪魔的な、下手すると人を挫折に導いてしまう悪魔的な魅力はまさに「劣等機能の罠」と呼ぶべきものかも知れません。
この「努力は尊いのか?」というテーマ、もう少し続けて考えていきたいと思います。